前回のブログで、僕が「障がい」という概念そのものについて深く考えていきたい、と書きました。これは、特別支援教育に携わる中で、常々感じている疑問だからです。
まず、皆さんは「障がい」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?
身体的な不自由さ? 知的なハンディキャップ? それとも、心の病?
もちろん、それらも「障がい」の一部です。
でも、僕がもっと考えていきたいのは、「障がい」という言葉が持つ、もっと根源的な意味なんです。
例えば、
- 「あの人は、障がいがあるから」
- 「障がい者だから、できない」
こんな風に、知らず知らずのうちに、私たちは「障がい」という言葉を使って、誰かを分類したり、能力を限定したりしていないでしょうか?
僕自身も、日々、子どもたちと接する中で、時には「この子は、〇〇が苦手だから、こういう支援が必要だな」と、無意識のうちに枠にはめてしまっていることがあるのかもしれない、と自問自答することがあります。
でも、よく考えてみてください。
できないことって、本当に「障がい」が原因なのでしょうか?
たとえば、目が不自由な人が本を読めないのは、その人の「障がい」のせいでしょうか?
もし、点字の本や音声読み上げの技術があれば、その人は本を読むことができますよね。
「障がい」という言葉は、とかく**「個人の問題」**として捉えられがちです。
「障がいがあるから、できない」「障がいを克服しなさい」
まるで、その人自身の努力や、身体・能力の問題であるかのように。
僕たちの社会は、ある特定の「標準」を設定し、そこから外れるものを「障がい」と呼んで、あたかも「劣っている」かのように扱ってこなかったでしょうか。
僕が読んだ本の中に、こんな言葉がありました。
「障がいとは、個人の属性ではなく、社会との相互作用の中で生まれるものだ」
まさにその通りだと、僕は感じています。
僕たちは、誰しも「できないこと」を持っています。
- 僕は絵を描くのが苦手だし、歌も音痴です。
- 早起きも苦手で、休日の朝はついつい二度寝してしまいます。
これらは、僕にとっての「できないこと」です。でも、これを「障がい」と呼ぶ人はいないですよね。
なぜなら、絵が描けなくても、歌が音痴でも、僕の社会生活が大きく制限されることはないからです。
つまり、「できないこと」が「障がい」になるかどうかは、社会の側が、その「できないこと」に対してどう対応するかによって大きく変わる、ということではないでしょうか。
「障がい」という言葉は、ある種のレンズのようなものかもしれません。
そのレンズを通して人を見ると、その人の「できないこと」ばかりが際立って見えてしまう。
でも、一度そのレンズを外してみたらどうでしょう?
- その人の「できること」や「得意なこと」
- その人の「個性」や「魅力」
が見えてくるはずです。
僕が特別支援教育に携わる中で、何よりも大切にしたいのは、子どもたち一人ひとりの輝く個性を見つけ、それを最大限に引き出すことです。
「障がい」という言葉の呪縛から解き放たれて、誰もが自分らしく生きられる社会。
それが、僕が「まなびとくらしのノート」で探求していきたいテーマの一つです。
次回は、この「障がい」という概念が、どのようにして社会に根付いていったのか、歴史的な視点からもう少し掘り下げてみたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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