特別支援教育の歴史に見る「分離」と「共生」のせめぎ合い
こんにちは!特別支援教育の歴史を振り返りながら、私たちが目指すべき教育のあり方について考えていきたいと思います。今回は、金井康治闘争を例に、特別な支援を必要とする子どもたちの「学びの場」を巡る、二つの大きな考え方の対立を見ていきましょう。
1979年:養護学校義務化と金井康治闘争
1979年は、日本の特別支援教育において重要な転換点でした。それまで希望者が通うものであった養護学校(現在の特別支援学校)が、小学校や中学校と同様に義務化されたのです。これは、障害のある子どもたちにも教育の機会を保障するという、大きな一歩でした。しかし、この「義務化」は、別の側面も持ち合わせていました。
それまで地域の学校で学んでいた障害のある子どもたちは、養護学校への転校を求められることになったのです。これは、当時の「分離教育」という考え方を象徴するものでした。障害のある子どもたちは、専門的な設備や教員が整った特別な学校で、個別の支援を受けるのが最善であるという考えです。
これに対し、強く反対したのが、脳性まひの金井康治さんとその家族、そして彼らを支援する人々でした。康治さんは、地域の小学校に通い続けたいと強く願いました。この「地域の学校で学び続けたい」という願いと、国が推し進める「養護学校への分離」との間で起こったのが、金井康治闘争です。この闘争は、障害のある子どもが「当たり前に地域で学ぶ」ことの重要性を社会に問いかけました。
2006年:障害者の権利条約とインクルーシブ教育
金井康治闘争から時を経て、世界的な流れが大きく変わります。2006年に国連で採択された障害者の権利条約です。日本もこの条約を批准し、障害のある人々の人権を保障し、社会に**インクルージョン(包摂)**していくことが国際的な規範となりました。
この条約は、教育においても「インクルーシブ教育」の推進を求めています。インクルーシブ教育とは、すべての子どもたちが、障害の有無にかかわらず、同じ場所で共に学ぶことを目指す教育のあり方です。これは、金井康治さんが訴えた「地域の学校で学びたい」という願いが、世界的な教育の理念として認められたことにほかなりません。
そして現在へ:日本のインクルーシブ教育の課題
現在、日本の教育現場でもインクルーシブ教育への移行が進められています。しかし、まだまだ課題は山積しています。例えば、特別支援学級や通級指導教室は増えていますが、一方で地域の通常学級での十分なサポート体制が整っているとは言えません。また、通常学級や通級指導教室、特別支援学級、特別支援学校が併存する「連続性のある多様な学びの場」の設置や合理的配慮をすることにより、共に学ぶ教育はどこまで進んでいるのか。
金井康治闘争で問われた「分離」か「地域の学校で共に学ぶ」かという問いは、形を変えながらも今なお続いています。私たちの社会が、障害のあるなしにかかわらず、すべての人が共に学び、共に生きる社会へと向かうためには、一人ひとりがこの問いについて真剣に考え、行動していくことが求められているのです。
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